【2018年お年賀短編】花をあげよう

当作品には性的な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

「やあ、みどり先生」
 担当編集者の長谷さんのしゃがれた声が私を出迎える。
「今回のネーム見させてもらったよ」
 長谷さんはネームの描かれた紙をめくりながら、短くそろえられたあごひげを触る。私がデビューしてから十数年、この人は私の漫画人生を見てきた。見ると白髪が増えた気がする。頬の皺も深い。彼はこんなに老けていただろうか。いや、私が歳を取ったのだ。取らなかったはずの歳を。
「復帰なされてから一皮剥けた、って僕は思うよ。これぞ一ノ瀬みどり先生って感じがしてね。ただ――」
 私に向き直って長谷さんは努めて明るい声で言った。
「メッセージ性がいまいち弱いんだよね。これ。誰に向けて描いているの?」
 誰、って今更誰に描けばいいのだろう。
「第一、今時〈生命譲渡〉モノなんて流行らないよ? もうこんなの描き尽くされている。ファンタジーじゃなくなった現代ではね」
 生命譲渡。この世界では誰かが誰かに命をあげることができる。数秒でも、一生でも。
 こんな世界に生まれたくなかった。古典漫画にあるような人が抗うことなく死ねる世界を私は望んでいた。
 もう、誰に向けて漫画を描いたらいいのか、私には分からない。

 去年の大晦日、私は恋人の明(あきら)と名前を知らぬ魔女の三人で、最後の夜を過ごしていた。紅白歌合戦を見て、遠くから聞こえる除夜の鐘の数を数えた。
「身体の調子どう? みどりさん」
 厚手のチノパンにアーガイル柄のニットを合わせた明が私の乾いた手をさすった。私は布をたっぷりとあしらったロングワンピースにガウンを羽織り、痩せ細っているのに重たい身体をリビングのソファーに身体を埋めていた。
「どう、って今夜死ぬのに良いも悪いもないよ」
 私は乾いた笑いをシャンパンで潤した。最後の日が大晦日。私は年を越すことができない。なんて洒落ているのだろう。何かの冗談みたいだ。
 この世界では寿命の判定が医学的にできるようになっていた。私は名前も付けられない医学がまだ追いついていない病で死のうとしていた。全身が鉛みたいに重くて、頭はずっと船の中のように揺れて、止めどない吐き気と痛みに悩まされる。呼吸が止まるまであと数時間。私は人生を終えるのだ。まだ三十歳にもなっていないというのに。
「みどり先生、わたくしに寿命を延ばす魔術が使えたらよかったのですが」
「いいのよ。あんたが作る薬草付けの酒を飲むと幾分楽になるから」
 しおらしい顔をする魔女に私は精一杯笑いかけた。事実、魔女が作る薬はよく効く。医学では限界があることでも、魔術が効くことだってあるのだ。それに、
「死ぬのは、今夜なのよね?」
 魔女に確認すると、彼か彼女か分からない魔女は躊躇いがちに頷いた。医者にはこの冬としか言われていない。でも魔女がする占いでは「今夜零時」と具体的に出ている。ホロスコープだかオラクルだか知らないが、占いの理屈も信憑性も分からずとも長年連れ添った魔女が言うのだから私は信じている。もし間違っていて明日の朝、目が覚めたってこの魔女に「脅かすなよばーか」って笑ってやれば良いだけのことだ。
「みどりさんは〈輸命〉されないんですか?」
 明が私の手にすがりついて確認する。もうミリペンも持てなくなったこの手に何の価値があるのだろう。
「しないよ。どんな生物でも死ぬときは死ぬ。私はそれを受け入れている」
 街にはいつも〈献命お願い〉の看板があって、冬になると〈歳末たすけあい献命〉のCMが流れる。〈生命譲渡〉のシステムが確立されてから一時期は生命の売買が行われていた。しかし、貧困から命を売り、有り余る富を命に代えて生きながらえる人々が当然のごとく現れた。そのため現在では〈生命譲渡〉は無償でのみの取り扱いとなる。生命の取り出し方は詳しくは知らないが、血液を通して小さなタブレットになって〈生命譲渡〉されたい人に投与される。私たちの一番大切なものが、一欠片のタブレットになってしまうなんて酷いジョークだと思った。
 そんなものをもらってまで生きようとは思わない。
「他人に命をあげてまで手に入れたい自尊心ってなんなんだろうね」
 私はニヒルに笑ってグラスに残ったシャンパンをあおった。
 丁度紅白歌合戦の合間のニュースで今年の献命合計時間が発表されていた。約八百年。それだけの命が不要とされて誰かの元へ届けられる。そして譲渡した命で誰かの可哀想な命が救われたらその人は満足するのだろうか。いいことをしたつもりになって、自分を満たして、失った命より今を優先する。いつ死ぬか分かっているからできることだ。死ぬ間際の十秒で伝えられなかった愛の言葉の存在を彼らは知らないのだろうか。少なくとも私はそんな犠牲の上で生きようとは、誰かの自己愛のために生きようとは思わなかった。
「元々は〈生命譲渡〉は魔術だったのよ」
 魔女がそう切り出す。
「命を取りだして誰かに与える。それは古くから存在する魔術で、その力の強大さと倫理的問題から禁忌とされていた。でも人間は科学の名の下に見つけてしまった。こんな世界になってしまったのも人間のせいなの。人間のエゴイズムでできてしまった世界。魔法を受け入れない一方で我が物顔で利用するのだから、わたくしも嫌になってしまいますわ」
 それでも、と明が呟いた。
「少なくともおれは、愛する人になら命を分けてあげたいです」
「それは嫌だって、何度も言っているでしょう? 明は明の人生を生きてよ」
 明はこぼれる涙を拭って、
「みどりさんの作品、最後まで読みたかったです」
 私は何も言えなくなって、明の癖のない髪を撫で続けていた。
 やっと手に入れた連載。それも一身上の都合で休載となり。それは明日から永遠のものになる。
「そろそろわたくし、お邪魔になってしまうかしら」
 魔女はスツールから立ち上がると、黒のスラックスの皺を伸ばし、シャツの上から黒い外套を羽織った。
「これはわたくしからのはなむけよ」
 魔女は胸ポケットから乾いた薔薇の蕾を二つ取り出した。一つは血のように赤く、一つは汚れを知らぬように白かった。
「わたくし特製のお茶よ。安らかに眠れるように魔法かけておいたから」
――それじゃあ、さようなら。
 魔女は私たちと視線を絡ませてから立ち去った。結局名前も性別も知らなかったな、と私は笑った。知らなくても良かったけれど、種明かしのないミステリー作品に出会った気分だった。
 私は明の肩を借りて寝室まで向かった。明に触れるのも、今夜が最後だ。
「みどりさん、無理させてませんか?」
 ベッドに身体を横たえて、明が私の手を握る。
「最後ぐらい、無理させてよ」
 私は明を抱き寄せると、彼の薄い唇をついばむ。私の中に火が灯ると、視界の揺れも身体の痛みもどこかへ消えてしまう。しっとりと、ゆっくりと、ひとつずつ身体の中の蝋燭に火を灯す。快感への入り口を探すように。
「みどりさん、電気消してもいいですか」
「最後くらい見たくないの?」
「みどりさんの姿は写真を見たら思い出せます。動画を見たら声だって聞ける。でももう質感も、体温も、臭いも、味も感じ取れなくなる。だから視覚を消して、他の全てに集中したいんです。忘れたくないから」
「分かったわ」と私は了承した。
 部屋の電気が消える。今日は新月だった。か弱い星の明かりだけでは私に明の姿を見せることを許してくれなかった。
 明が私のガウンとワンピースを脱がす。体調を崩してからはブラジャーをしていなかった。冷たいシーツが心地よいほど身体が火照っている。明の身体が私に覆い被さる。彼の薄い胸の質感。森の中のような深い男性の匂い。汗ばんで吸い付く肌。私を溶かす熱い吐息。首筋に顔を埋めて彼は深呼吸した。
 唇と手がくまなく私の肌を撫でる。彼は私の輪郭を確かめている。彼とこういう関係になってから幾度となく肌を合わせた。そのたびに私の身体は少しずつ変化していたかもしれない。それでも私は私で、明は明なのだ。存在を証明するものは私であるという意識だ。他人の命でなんか生きたくない。私は、私なのだ。その私を彼は確かめているのだ。
 熱い唇から固い歯が剥き出て、私の鎖骨に歯を立てる。むず痒さの奥に私の中心から震える快楽が押し寄せて、私の呼吸は熱を帯びる。鼻にかかった声をふさぐ手を、明は引きはがしてシーツに縫い留めた。暗闇の中で布擦れの音と、明の呼吸と、私の声が響いている。私の声はこんなに甘かっただろうか。恥ずかしくて腰のあたりにある何かが甘く震えている。熱を帯びて、蜜を作り、吐き出す。内ももを液体が伝うのを克明に感じる。こんなに意識が鮮明な――感覚が過敏なセックスをしたことがあっただろうか。
「あきら、はずかしい」
 その声は潤んでいた。
「なんで? 何も見えていないのに?」
「あきらのばか」
「可愛いですよ、みどりさん」
 見えない声の主は満足そうに笑っていた。
 反論しようと舌を動かすと口の中に明の舌が押し入ってきた。熱くて、なめらかで、分厚い。私の歯の形、並び、虫歯の痕、舌の長さ、軟口蓋のやわらかさ。全部を記憶するようにゆっくりと舌が動いていった。おずおずと舌を絡ませると明はあっさりと私の舌を受け入れて、舌の裏のやわらかいところに触れた。私の脚が震えて小さく水音がした。感覚という感覚が研ぎ澄まされて、何を考えているのか思考がはじけ飛んだ。
「みどりさん、軽くいきました?」
「聞かないで」
 泣きそうな声が私の答えだった。
 明はもう一度唇を合わせる。私の腿に手が触れる。冷たくて、細くて、骨張っていた。膝の裏から腿の内側にかけて冷たい指先が這う。ぞわりとしたものが私の中を駆ける。早く触れて欲しくて、触れられるのが怖かった。
 ひと、と彼の指が私の泉の入り口に触れる。私が思っているほどよりそこは濡れそぼっていて、彼の指がなめらかに滑るのを感じる。恥ずかしさより、私は求めていた。ふるふると期待に震える。早く、でも。
「みどりさん、どうされたいですか」
 私は何も言えなかった。欲しい。あなたが欲しい。
「じゃあやめますね」
「いやっ、待って」
 私は大きくかぶりを振った。
「欲しい、よ」
 叫びにも近かった私の声は尻すぼみになっていた。
「明が、欲しい」
 すがるような私の声が闇夜にあった。言ったそばから恥ずかしくなって、私は明の肩に噛み付いた。軽く歯を当てると今日は「痛いですよ」と笑って引きはがした。いつもなら気が済むまで噛ませてくれるけれど、今日はそんな時間すら惜しい。
 明は私を一度きつく抱きしめると、耳元で「ありがとうございました」とささやいた。
 一刹那、固いものが私の中心を穿った。強すぎる刺激に私は腰を不規則に震わせる。跳ねる腰を抱きしめて、明は私を逃がさなかった。
「あきら、わたし、わたし」
「好きです、みどりさん」
 私は鳴くように彼の名を呼び続けた。律動が私の中心を鳴らす。これは本能の声だ。私が求めているのは愛で、命で、明だ。私の中に何度も何度も明が入る。官能の扉を強く、何度もノックする。そのたびに私は全身で返事をした。私はここにいる。私はここに生きていた。私は、明を愛して生きてきた。この愛は、死んでも消えない。
 私は幾度となく果てた。全身を震わせ、時には大量の透明な液体でシーツを濡らした。オーガズムの波が来るたびに死んでしまうのかと思った。これが死なら、私は死ぬのは怖くない。でも、まだ死にたくないと願った。
「みどりさん、おれ」
「いいよ、だして」
 乱れた息の合間で返事をする。明の腰の動きが試すものではなく注ぐためのものに変わる。荒々しく、私を奪う。
 明の低い呻きと共に冷たいものが私の中に広がるのを感じた。私も合わせて最後のオーガズムを迎える。深く、長く、穏やかなものだった。
「すき……」
 目尻からひとしずく伝うものは、きっと愛のかけらだ。

 電気をつけると、明はボクサーブリーフにシャツを羽織っていた。私も促されてワンピースを着る。
「お茶、淹れますね。魔女さんからの」
「ええ、お願い」
 ベッドに身体を投げ出したまま、私は明の背中を見送った。
 私が見る最後の姿なのだ。私は今夜死ぬのだから。
 性の余韻で悲しくなって、私は静かに泣いた。彼が戻ってくるまでに泣き終わってしまおうとワンピースの袖で目をこすった。私は最後まで「一ノ瀬みどり先生」でありたかったから。
 明は二つのカップを持って寝室に戻ってきた。一つは湯の中で赤い薔薇が咲いたカップ。もう一つは白い薔薇が咲いたカップ。どちらも淡い青色の湯でほのかに渋い香りがしていた。
「これ本当に飲めるの?」
「おれに聞かないでくださいよ。でも、飲めますよ。烏龍茶みたいな香りです」
 明は赤い薔薇のカップを私に差し出した。私はあの魔女のことだから悪いようにはしないだろうと口にした。
「本当だ。烏龍茶みたいね。なんだ、ちゃんと美味しいじゃない」
 私が飲み干すと、赤い薔薇が一刹那輝いて見えた。あの魔女のことだ、気を遣って眠りを助ける作用でも入れておいてくれたのだろう。誰しも、死の間際は恐ろしいものだから。
 明も白い薔薇のお茶を飲み干した。あちらにはきっと気分安定剤でも入れておいてくれたのだろう。明の顔は悲しげであったものの、どこか穏やかなものだった。
「それじゃあ、寝ましょうか」
「はい、おやすみなさい、みどりさん」
「今までありがとうね。私のこと、ずっと支えてくれて」
「いいんです。一ノ瀬みどり先生の漫画を読むことができて本当に幸せでした」
 私たちは強く、強く抱きしめ合って眠った。さようなら、は言えなかった。

 人は死ぬとき、過去の記憶をたどるのだろうか。私は明と出会った日のことを夢に見ていた。
 私は何度目かになる同人誌即売会に出ていた。同人誌即売会というのは自費印刷した漫画や小説、イラスト集などを作家が集まって売るイベントだ。長机半分とパイプ椅子二脚の小さなスペースを一日四千円で借りて、広大な展示場の真ん中で通り過ぎる多くの人々を眺めている。たまに立ち止まって立ち読みしていく人もいれば、買ってくれる人もまれにいる。でも、ほとんどは私に興味を持たない。私はただの漫画家志望の少女で、何を伝えたいのか、誰に描いたら良いのか分からない。明確なものを持たずにただ獣のようにたぎる承認欲求の塊を抱きかかえて――誰かに認められたくて私は座っていた。
「みどり先生の素晴らしさが分かってくださる方がどうしてこんなにもいないのかしらね」
 隣で手伝いの魔女がぼやく。
「もちろんわたくしはみどり先生の素晴らしさを誰よりもり理解してましてよ」
「あんたのその物騒な出で立ちで逃げるのよ」
 黒づくめでフリルたっぷりなドレスに加えて黒いハットを合わせていたら誰でも不審がるだろう。でも私の創作活動を応援してくれるのはこの魔女くらいしかいなかった。
 私の小言にも動じず「これが魔女の正装ですの」と言ってのけるので私は呪われない程度に魔女の足を踏んでやった。
 大量の在庫を抱えた帰り際、一人の男がスペース前に立ち止まった。背が低くて、痩せていて、子犬のように震えていた。年の頃は私より少し若い。高校生くらいだろうか。
「あっ、あの」
 声はまだ少年の明るさを保っていて、彼の若さを伝えた。
「一ノ瀬みどりさんの、ブースですか?」
 男は私と魔女を見比べて、震えていた。
「はい、私がみどりです」
 ピンクのセーターにデニムジャケットという地味な方の私が返事をすると、男は顔の周りに花を咲かせ、目を伏せて睫毛をゆらした。
「お、おれ、差し出がましいかもしれませんが、一ノ瀬みどりさんの、大ファンなんです。新刊、ください」
「大ファン」と言われて私はいまいち理解できていなかった。
 代金を受け取ると新刊をビニールの袋に入れ、袋に油性ペンで既刊のキャラクターイラストとサインをさらさらと描いた。
「あっ、みさこちゃんですね?」
「えっ、あっ、はい。みさこちゃんです。よく分かりますね」
 おどろいて私までどもってしまった。
「おれ、『はじめとみさこ』シリーズ全部持ってるんです。いじらしい恋愛観が素敵というか。舞台になった街ってN市のM駅周辺ですよね? おれ、聖地巡りしちゃったんです」
 ほら、と言って見せられたスマートフォンの画面には、確かに私が漫画に描いた町並みの写真が何枚もコマと同じ画角で収められていた。
「みさこちゃんの方言が独特なのでここかな? って探してみたんですけど見つけられて本当に嬉しかったです。一ノ瀬みどりさんって取材の量が多いですよね。こだわって作っていらっしゃるというか。背景や小道具までしっかり描き込まれていますし……はじめくんの心理描写もよくて、この、照れたときの表情におれ、あやうく惚れそうになりましたよ。おれもこんな表情できるような恋をしてみたいって」
 そこまで話すと、男ははっとして「すみません」と叫ぶように頭を下げた。
「気持ち悪いですよね、こんな。でも、好きなんです。これからも応援しています」
 それじゃあ、と立ち去ろうとする男のジャケットの裾を咄嗟に掴んでいた。
「あ、ありがとう。私、こんな」
 うまく言葉が出なかった。胸の真ん中が暖かくて、苦しくて、喉の奥が痛かった。これが「大ファン」っていう存在なのか。
「はい、これみどり先生の連絡先よ。今度ゆっくり話してあげてほしいわ。みどり先生のためにも」
 魔女が勝手に名刺の裏にプライベートの方のアドレスを書いて渡していたが、怒る気にもなれなかった。だって、こんなに、
「あなた、名前は?」
「久世明(くせあきら)って言います。帰ったらすぐ連絡します」
 明が立ち去ってから私はしばらくみっともなく頬を濡らしていた。魔女に差し出されたハンカチは酔いそうなほど薔薇の香りがして、私の全身を温めた。

 私は心から誓った。この人のために漫画を描こう、と。

 スペースを片付けて撤収する頃にはすでにスマートフォンに連絡が入っていた。
〈一ノ瀬みどり様
今日、一ノ瀬みどりさんの漫画を購入した久世明です。
待ちきれなくて電車の中で新刊を三回も読みました。
はじめくんとみさこちゃんの初めての喧嘩は胸が痛くなるほど切なくて、でも仲直りしたときの表情や台詞が可愛らしかったです。みどりさんの描く漫画、好きです。
文字にするとうまく言えないのでこれくらいにします。本当にありがとうございました。
久世明 akira********@***.ne.jp〉
 私は泣きはらした瞳がまた潤うのを感じた。そして返信をした。よかったら今度カフェにでも行かないかと。魔女に「あなたの運命を握る人よ」と言われたのもあったが、私の漫画をよりよくしてくれると思ったから。何より、お礼をちゃんと言いたかったからだ。

 私たちは月に数回、ギャラリーが併設されたカフェで語り合うようになった。話してみると明は大学一年生で、私は同じ大学の三年生だった。家もさほど離れているわけでもなく、他愛のない話にも花を咲かせた。何より明の語る恋愛観は私に近いものを感じたし、生の感想を聞けることが何よりも嬉しかった。新作ができあがると真っ先に明に見せて感想を聞いた。彼はいつも「みどりさんの漫画は最高です」と言ってくれた。
 あるときは一緒に取材へ行った。電車を乗り継いで遠くの街まで行き、写真を撮って回った。出会って三年後に向かったのは温泉街で、立ち上る湯気と硫黄の香りをどうしたら表現できるのかずっと考えていた。隣にいる人のために描きたいと、願っていた。そのときにはもう、お互い気づいていた。
 その温泉旅館で、私は明と結ばれた。
 きっかけとか理由とかはいらない。ただ、私にとって一番重要なのは今感じている感情なのだ。
 目が覚めると、私と明はくすぐったいような恥ずかしさと満ち足りた幸せに顔を見合わせて笑った。この人となら、私はどこへだって行けるだろう。夢を叶えることだって、できる、と。
 その年の冬、私は応募していた漫画の新人賞で大賞を受賞し、見事プロデビューを果たした。明の森の中の匂いに包まれて私は目尻を真っ赤にして泣いた。全ては明のおかげだ。この人がいなかったら私は筆を折っていただろう。いつも彼が言う「みどりさんの漫画は最高です」という言葉を信じた結果だ。受賞したことを明に伝えると、彼は私以上に喜んでくれた。
「これからもおれは一番のファンでいます。一番近くにいさせてください」
 明にプロポーズされて私たちは同棲を始めた。明は大学を卒業すると自動車関連の企業に就職した。締め切りが迫るとなるべく定時で帰ってきて家のことをしてくれた。私にはもったいないほどの人だった。時折魔女が私たちの家に居座ったが、明もこの「魔女」という存在を受け入れつつあった。性別も年齢もない人の形をした何かが、この世の中にいるのだと知っていった。魔女と私は小言を言い合って、明が仲裁するのがお決まりのパターンになっていた。
 順風満帆な生活だった。最愛のパートナーに恵まれ、夢であった漫画家になり、少しずつ本誌に掲載されるようになった。はじめての単行本ではサイン会も開かれた。もちろん私は明の本に一番最初にサインをした。この人のために、私は漫画を描いているのだから。
 本誌での新連載も決まり、私たち三人は小さな祝賀会を開いた。シャンパンを飲んで、デパ地下のお総菜とチーズを食べた。そしてお決まりのように魔女と私の小さな言い合いが起こり、明が苦笑しながら止めた。幸せというものの上に成り立つじゃれあいだった。
 でも幸せの最中、私の身体に異変が起こった。
 私はある冬の寒い日に突然四十度近い高熱を出して倒れた。救急車で運ばれ、さまざまな薬を点滴から投与された。そして〈寿命測定〉をされた。
 私に残されていたのは、たった十ヶ月だった。
 目の前が真っ暗になるというのはこういうときに使う言葉だろう。私は何も考えられなかった。いや、考えすぎていた。連載はどうする? 引っ越したばかりの分譲マンションのローンはどうする? 明日の朝ご飯はどうする? 明との未来はどうなる? 考えが次々に浮かんでは絡まり合って、明瞭な答えが出ないトンネルの中に取り残されているようだった。
 医者に勧められたのは〈輸命〉だった。私の病は突発的に起こる「神による命の総量の調整」だった。要らない命を私が受け取って生きろ、と言われたのである。
 私はそんな理不尽な神の存在など信じたくもなかった。でも科学者たちは答えのでない物をすぐに神と結びつける。宇宙の始まりだとか世界の設計だとか最も素晴らしいものだとか私たちの理解を超えるとすぐに「神」というワードを出すのである。
 無能な科学者よ。そんなもののために私は死ぬのか。
 明はすぐに〈輸命〉するよう勧めた。泣きはらした目を真っ赤にして私を抱きしめた。魔女は中立的な態度で「あなたが決めることなのよ」と言った。
 私は、誰かの命をもらってまで生きたいとは思わなかった。
 私が漫画を書き始めたのは、祖母が集めていた少女漫画を読んでいたのがきっかけだった。恋をして、悩んで、喜んで、そして死ぬ。それが人間のあるべき姿じゃないのだろうか。
 そもそも〈献命〉する人のことを私はよく思っていなかった。どうしてそんな簡単に命をあげられるの? 私たちに与えられた最も大切なもの。それを分け与えて得る自尊心ってなんなのだろう。人助けをして気持ちよくなって、私たち死ぬ側は申し訳ない気持ちでそれを受け取る。本当にそれでいいのだろうか。〈献命自殺〉が去年の流行語大賞にも選ばれていた。本人が要らないと思った命をリサイクルだなんておかしい。私は、もし死のうとしている人がいるのならば自分の命を使い切って死ぬ道を探して欲しかった。そんな人々に希望を与えられる漫画を、私は作りたかった。
 様々な考えが熱に浮かされた私の頭を駆け巡った。悲しみ、怒り、虚無感、憤り。私はもうすぐ死ぬ。こんな体調じゃもう漫画は書けない。
――――この物語の最後を明に読ませてあげられない。
 その考えに至ったとき、私は一生で一番の悲しみを感じた。理屈を並べるより明確で純粋な悲しみだ。
「明、ごめん。ごめんね」
 固い病院の枕を濡らし、私はずっと迷い続けた。他人の命で生きるべきか、自分の命で死ぬべきか。
 私が「他人の命」を嫌悪していると知ると、明は自分の命を〈輸命〉するよう申し出た。
 そんなこと、私が許せるはずもなかった。明の命は、明のものだ。
 私は運命を受け入れる。神が命の総量の調整のために私を殺すのならば、私は甘んじてうけいれよう。
 私の物語は、ページが途切れるように終わってしまったのだった。

 目を開ける。光が差し込んでいる。鳥がさえずっている。
 朝だ。朝が来たのだ。
 初日の出は高く上り、新年の澄んだ空気を暖める。
 私はまだここが夢か現か分からずにいた。
 隣に愛しい人の身体が横たわっている。細くて、小さくて、大きな存在。
 私は彼の名を知っている。久世明だ。
「なぁんだ、あの魔女、私を驚かせたかっただけなのね。四月馬鹿じゃあるまいし」
 私の声はいつになく健康的で明るかった。
「明、起きてよ。私、生きているわ」
 明はぴくりとも動かず、ただ身体を横たえていた。
「ねえ、明ってば」
 肩に触れて気付く。明の腹が上下に動いていない。胸も膨らまず、ただ、そこに肉体として存在している。
「あきら、あきら」
 私の声に焦りが混ざる。私の方を向いて眠る明の肩を倒すと、だらりと腕が流れて仰向けになる。
 私は小さく悲鳴を上げた。
 明の左半身に、赤い斑点があった。心臓のあたりから肩を通って左腕の先まで。何カ所も針で刺されたような、茨にとらわれたような痕。ところどころ血が滲んでいて、白いシャツを命の名残が染めていた。
 こんなことをするのは、あいつしかいない。
 私は明を寝かせると、怒りを胸にコートを羽織り、家を出た。
 初詣で賑わう駅前、人混みの中を私は早歩きで縫っている。あんなに重かった身体が軽い。吐き気もない。熱もない。私は生きている。そして、明が死んだ――。
 街中の誰も目に留めない小さな門が開いている。魔女の門だ。魔女は私を待っていた。魔女は全てを知っているというのか。
 私が屋敷の扉を叩くと、ゆっくりと開いた。お入りなさい、と声がするように。
「待っていましてよ、みどり先生」
 魔女は紅茶を飲んで椅子に腰掛けていた。
「明に何をしたの」
 私の声は驚くほど低かった。
「明さんは〈生命譲渡〉することを選んだわ」
「〈生命譲渡〉?」
 私の眉がつり上がる。
「みどり先生が一番実感しているのではなくって?」
 確かに身体のどこにも死の気配がない。だが私が聞きたいのはそんなことではなかった。「なんで明がそんなことするの?」
「その理由はみどり先生が一番おわかりのはずですわ」
 私が憮然と立ち尽くしていると、魔女は調度品の並んだ棚の引き出しから一通の封筒を出した。薄紅色の封筒に記された宛先は一ノ瀬みどり、封は私が昔イベントで出したみさこちゃんのステッカー。差出人は
「くせ、あきら」
 私はおそるおそる封を開ける。

〈一ノ瀬みどり様
 おれ達は出会ってから何度もメールをやりとりしましたね。でもこれが最後に差し上げる手紙だと思うと手が震えて、何を書いたらいいのか分かりません。文面になると言葉が出ないのは昔から変わらないようです。なので端的に用件だけお伝えします。
 おれはみどりさんにこの命の全てを捧げることにしました。
 魔女さんに〈生命譲渡〉の魔法をかけてもらいました。なので年を越すことなく死ぬのはみどり先生ではなくおれです。神の与えた運命を変えるには対価が必要です。それがおれの命だったのです。
 おれは、おれが死ぬことより、一ノ瀬みどり先生の漫画が世に出ないことのほうがつらいです。
 だっておれはあなたの大ファンですから。
 ただひとつ、あなたの漫画をもう読めないのだと思うと心苦しいです。
 あなたを寂しくさせてごめんなさい。でも、あなたにはそれだけの才能がある。
 あなたの漫画を、どうか発表し続けてください。死んでもおれはみどりさんの大ファンです。
 それでは、ぼくの一番大切なみどり先生へ。さようなら。
 20XX年12月31日 久世明〉

 明が書いた文字が私の涙で滲まないようにするのが精一杯だった。
「ひどいよ明、私、あなたがいないのならばこんな命要らなかった」
 明が「みどりさんの漫画は最高です」というから頑張ってこれた。あなたのために描き続けてきた。じゃあ、これからは誰のために漫画を描けばいいの?
「ねえ、あんた私は年を越せないって言ったわよね? あなたの占いはそんなにでたらめなの?」
 私は涙の滲む瞳で魔女を睨み付けた。
「いいえ、わたくしの占いは当たっておりますわ。わたくしは『年を越せない』とはいいましたが『誰が』とは一言も申し上げておりません。占いというものは――特に未来に関するものは知った時点で変わるものなのです。明さんはあなたがこの冬に亡くなると知った時点であなたに命を捧げるつもりだった。それが私の占い結果ですわ。年明けと共に明さんは死に、あなたは一生漫画を描き続ける。明さんが選んだ未来はこのとおりですわ」
 なんで、と口から出ていた。
「なんであんたはそれを私に教えてくれなかったの? 私が明が死ぬことを望むはずがないじゃない。なんとしてでも止めたのに」
「それは、あなたの死後、久世明さんは後追い自殺するつもりでしたから。彼にはあなたしか生きがいが無かった。あなたが全てだったのですのよ」
「私だって、明が全てだった。それとも少しでも命の総量を増やそうっていうの?」
 冗談じゃないわ、と私は泣き喚いた。魔女の胸を思いっきり何度も殴った。それでも魔女はいつもの表情を崩さなかった。冷たくて、何を考えているのか分からない顔を。
 これで明が満足するというのならとんだ自己中だ。今でも私が死ぬべきだったと思う。でも私は知った。〈生命譲渡〉は誰かの道楽でも自尊心を満たすための行為でもない。自分の一番大切なものを大切な人へ届ける行為――愛なんだ。

 私は明の命で生かされている。一生漫画を描き続ける。これは呪いだ。
 誰のためのものか分からないものに、一生縛り付けられる。
 もしも神がいるのならば、私は恨み続けるだろう。命の総量が決まったこの世界を。


「――でね、みどり先生。恋人に〈生命譲渡〉して自分は死ぬなんて話、もう描き尽くされているんだよ」
 長谷さんは私のネームを置いてにっこりと微笑んだ。
「でもみどり先生の漫画には説得力がある。描き尽くされていても、新たに感じられるものがあるんだ」
 これが最後と言わずに、続けてみないかい? と長谷さんは私のペンだこだらけの手を握った。
「はい、続けます」
 明にもらった命が尽きるまで、私は描き続ける。この、歪んだ世界で。


最後までお読み頂きありがとうございました。
重すぎる年明けとなりましたが、これが佐倉愛斗という作家の今です。
僕は呪われたように物語を書き続けています。きっと、これからも。
コメント欄を開けておきますので挨拶・感想等ありましたらどうぞ。
2018年もよろしくお願いいたします。
web拍手 by FC2
2018/01/01 (月)
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