記憶の海

 私は記憶の海に潜ることができる。
 目を閉じて両耳に人差し指をつっこむと、海の音がする。実際は指と耳の皮膚が微かに擦れている音らしい。それでも私は「記憶の海」と呼んでいる。
 記憶の海は誰か知らない人の記憶だ。潜ってみると様々な人間の記憶に出会う。最初は夢なのかと思っていたが、現在・過去・未来の知らない景色、匂い、音。そして知らない感情を追体験できる。
 その中で私は恋心というものに興味を持った。青い私にはまだ分からない。どうしてそんなに心震わせ喜怒哀楽するのだろう。心はなだらかな方が楽に生きられるのに。それでも興味を持ってしまったのだから、私は記憶の海で恋している人の記憶に出会うとほんの少しときめくのだった。
 ある夜、眠る前にいつものように記憶の海に潜った。押し寄せる波の音が頭の中をハウリングして、誰かの記憶につながる。
 その人は若い女性だった。テレビの音声から察するに私と近い時代に生きている日本人だ。違うのは、私が田舎の島育ちであることに対して彼女は海辺の都会に暮らしていることだった。
 彼女には好きな人がいた。その人に会えない悲しみに心が黒い波で荒れ狂い、その海水が瞳から染み出していた。
 たいそう愛しい人だったのだろう。私は記憶の中の彼女に笑って欲しかった。この前垣間見た、太ったアメリカ人警官が逃げた犬を追いかけてフェンスに挟まった話でもしたら笑ってくれるだろうか。
 記憶の中の彼女は一冊の日記帳を持っていた。日記帳と言ってもただの市販のノートだ。彼女はそれを胸に抱いて泣くのだった。「ねねちゃん」と私の名前を呼んで。
 名前を呼ばれたことに驚いて私は潜水をやめた。ただの偶然かもしれない。でも、胸いっぱいにサイダーが弾けるようなこの感覚は他の人の記憶に潜っていて知っていた。
――恋だ。
 それから私は頻繁に記憶の海に飛び込んだ。飛び込める相手はランダムだけれど、何故か彼女――ヒトミさんの記憶に潜ることが多かった。そこで知ったのだが、ヒトミさんには妹がいて、幼いころに両親が離婚していた。そして私が生きている時代のヒトミさんは高校生だった。
 私も幼いころに両親が離婚して、覚えていないが姉がいたらしい。そして今の私も高校生だ。たったこれだけの共通点で心躍るなんて私も他の恋する人も単純だ。
 ヒトミさんのノートには何が書いてあるのか偶然覗くことができた日があった。そこには日記なのか、小説の原案なのか、あらゆる人の名前とストーリーが描かれていた。妄想好きな質なのかと最初は思っていた。しかし私は見つけてしまった、私の名前を。
 ただの同姓同名かと思っていた。しかしそこには私の記憶がありありと描かれていた。
 私が島の閉鎖的な人付き合いに辟易していること。昨日さっちんの誕生日会をしたこと。そして、幼いころに両親が離婚して姉と離れ離れになったこと。
 ヒトミさんも私と同じように記憶の海に潜れる人なんだ。
 同じ能力のある人に出会うのは初めてだった。それが恋い焦がれるヒトミさんであったなんて。
 私はなんとかして連絡できないか考えた。ランダムに記憶を読み取るのだから現在の記憶が届くとは限らない。未来のヒトミさんに向けてメッセージを残すか、会いに行くか。逸る心が後者を選ばせた。
 私は何度もヒトミさんの記憶に潜って、おおまかな住所を知ることができた。島から小さな船で本州に渡り、そこからは新幹線。私は何時間もかけて横浜の地に降り立った。島とは違う人の多さに眩暈がした。ヒトミさんが通う高校の前で右往左往していると、彼女が現れた。鏡でしか見たことがない高校生のヒトミさんだった。
「あっ、あの、ヒトミさんですか?」
 ここまで来たのだ、逃げるわけにもいかなかった。
「どちら様ですか?」
 ヒトミさんは怪訝そうな顔で私を下から上まで見た。そうだ。どう説明したらいいのか私には分からない。
「ねねです。ほら、ノートに書いている。記憶の海の……」
「そんなノート、私は持ってません」
 ヒトミさんはそう言い残すと立ち去ってしまった。追いかけたかったけれど、足に根が生えたように動けなかった。

 そして帰りの船が転覆し、私は死んだ。

 死んでみて分かったが、人は死ぬと記憶の海の雫になる。私のあの能力は生と死の世界を垣間見ていたのだ。記憶の海はどこまでも広く、死に向かう全人類の全思考で満たされている。だからヒトミさんの記憶も全て自由に読むことができた。
 みっつ分かったことがある。
 ひとつはあのヒトミさんの能力は死者の記憶のみを読める人であったこと。
 もうひとつは、ヒトミさんは私の生き別れた姉であったこと。
 最後に分かったことは、ヒトミさんは死んだ私に恋してしまったこと。
 私たちは二度と会えない。凪いだ海に私の涙が小さな波を起こした。



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2017/07/28 (金)
短編集

夏の覚悟

 夏が終わった。
 構えていたホルンを膝に下ろし、息を吸った。まだ胸が熱い。顧問が指揮台の上から私たちをすくい上げる合図をして私たちは立ち上がる。スポットライトの奥、薄闇の中からライバルたちと審査員の棘の混ざった拍手が浴びせられる。どちらが美味しい瓜なのか私たちを品定めする。そう、ここは私たちの戦場なのだ。
 吹奏楽部地区予選中学生の部A編成。十三分間の間に中学生は課題曲四曲の中から一曲と自由曲一曲を演奏する。その十三分のために私たちはひと夏、何百時間もの時間を練習に費やす。楽譜は書き込みで真っ黒になり、楽譜無しでも演奏できるほどに頭と体に刷り込まれる。たった十三分。それが私たちに与えられた勝負の時間である。
 今回の演奏も悪くはなかった。でも、こんなにあっけなく終わる虚しさに私は何かが抜け落ちたように茫然としていた。
「後藤先輩、私トリオの出だし音外しました。申し訳ありません」
 ホルンパートの後輩、美穂ちゃんが涙目になって私に頭を下げる。その個所は私も気づいていた。和音となって聞こえるはずの裏打ちが崩れていたのだ。フレンチホルンという楽器は倍音が多いため音を外しやすい。緻密なリップコントロールが要求される楽器だ。
「大丈夫よ、審査員なんて最初の三分くらいしか聞いていないから」
 美穂ちゃんの短い髪を私はくしゃりと撫でた。大丈夫、大丈夫と言い聞かせて。
――――大丈夫、県大会に進めるなんて誰も思ってやしないから。
 私たちの中学校の吹奏楽部はよく言えば和気あいあい、悪く言えば気の抜けた部活だった。毎年「今年こそ県大会へ」と言っているが、県大会へ進むのは隣の市の中学ばかりで、実現したことなどない。楽しく演奏できたらいい。でもできたら県大会に進みたい。それくらい「ふわっと」した部活動だった。
 楽器を片付け、ホールで他の中学の演奏を聴く。やはり隣の市の中学の方がずっと上手い。どこからこの差はやってくるのだろうか。同じ夏、同じ時間の中で何を得てここまでの演奏を作り上げているのだろう。他の部員からも「やっぱ、うめえな」と声があがる。何が、何が違うのだろう。
 結果発表は審査員長の口頭で行われる。
「先輩、怖いです」
 美穂ちゃんの手を私は握った。彼女の手は小さく震えていた。私は一年からコンクールに出ているためもう三度目。慣れきっている。「あなたたちの演奏はよくなかった」と言われることにも。
 演奏順に次々と発表されていく。「きん」と「ぎん」は聞き取りづらいため金賞のみ「ゴールド、金賞」と発表される。ゴールドと審査員が言う度に会場から大きなどよめきと悲鳴が上がる。常連校であってもそれは変わらない。逆に銀賞、銅賞でもなにかしらの声は上がる。落胆なのか安堵なのか私には分からない。
 十六番目、私たちの中学が発表される。
「エントリーナンバー十六、銀賞」
 知ってた。
 演奏を終えた瞬間から私は「金賞はない」と思っていた。こういうものは演奏者が一番よく分かるものだ。
「ごとうせんぱいー」
 美穂ちゃんが大粒の涙を流して私の肩で泣く。私は彼女の頭を抱いた。
「あたし、悔しいです。先輩と金賞獲りたかったです」
 悔しい。その言葉が私の頭を殴る。
 そうか、私は逃げていたんだ。こうやって悔しい思いをしないよう。みっともなく泣かないようどこかで逃げて本気にならなかった。金賞なんて獲れるはずがない。県大会に行けるはずなんてない。そう頭の片隅で思っていた。
 本気になって傷付くのが怖かっただけ。
 美穂ちゃんは本気だったんだ。本気で県大会を目指していたんだ。
 私は急に恥ずかしくなった。
「私も悔しいよ」
 そうやって泣けるほど本気になっていなかったことが。
 隣の市の吹奏楽部との違いはきっとこれだ。私は今までのぬるさを恥じた。
「美穂ちゃんたちなら大丈夫。来年絶対金賞獲れるから。その悔しさを忘れないでね」
 他のパートの後輩たちも涙を流していた。彼らは本気だったんだ。本気じゃなかったのは私。泣けるほど本気になれなかった私のことが悔しくてたまらなかった。
「私、高校でも吹奏楽続けるよ。絶対県大会、ううん、全国大会狙うから」
 悔し涙を流す覚悟を、私は決めた。



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2017/07/21 (金)
短編集

佐久間姉弟の事情 番外編 雷雨の屋根の下で

「姉ちゃん起きてる?」
 古い木製のロフトベッドの上段。一段だけ梯子に足をかけると、スマートフォンの明かりだけが愛しい姉の顔を青く照らしていた。時折地を揺らすような轟音がするたび、姉は縮こまってスマートフォンを握りしめた。
「なによ、聡」
「何って、眠れないのかなって」
「聡こそ」
 その声は皮肉と恐怖の色を含んでいた。夏の始まりを告げる雷雨がやってきた。
 窓を叩く雨音。遠い雷鳴。俺達は孤独だった。
「姉ちゃん、こっち来る?」
 青い光が消え、姉が体を起こす。
「うん」
 俺は姉の髪に指を遠し、唇に触れる。夏が連れてきた湿度。
「さとる、こわい」
「知ってる」
 おいで、と俺の寝床に招く。抱き合うと、少し甘い姉の汗の匂いがした。
「姉ちゃん、昔から雷苦手だよな。あと、大きな雨音も」
「煩い」との悪態もどこか弱々しかった。そんな姉が可愛くてしょうがなかった。
「早織、大丈夫だから」
 名前を呼ばれた彼女は、耳を紅く染める。
「何よ、いつの間にかイケメンになって」
「俺は早織の前でならいつでもイケメンだよ?」
「ばーか」
 そう俺の頬をつねった姉は嬉しそうに笑っていた。
「姉ちゃん眠れそう?」
「私は大丈夫だけど、聡は眠れないんじゃないかな?」
 姉の手が俺の隠れた三日月に触れる。
「生理現象です」
「まったく、私の弟は相変わらず元気なことで」
 暗闇の中でも姉が糸切り歯を見せて笑っているのが分かった。
「好きな人とベッドで抱き合ってこうならない方が寂しくない?」
 あえて昂ぶりを姉の腰に押し当てる。姉の呼吸が速まるのが分かった。
「何、するの?」
「早織がいいなら」
「私は、うん」
 姉は答えない。答えなど要らない。彼女の体温が答えなのだから。
「聡、好きよ」

 人は暗闇を見て夜だと知り、光を見て朝だと知る。
 腕の中でまだ眠る姉の顔を見て、今日も彼女がいることに感謝する。離れられない、たった一人の姉だから。
「姉ちゃんおはよ。もう晴れてるね」
「ん……聡暑い離れて」
 理不尽なところも姉である。狭いベッドから這い出て背筋を伸ばす姉を見ていた。
「今日は腰平気?」
「おかげさまで筋肉痛です」
 姉のスラリとした脚と引き締まった尻のラインに見とれる。
「綺麗に晴れたわね。台風一過ってやつ?」
「台風ではないけど嵐の後だよな」
 起きない頭で無意味な会話をする。今日は休日だった。
「私、朝ごはん作るけど聡はどうする?」
「寝る」
「でしょうね」
 一度目は覚めても頭が起きるには時間がかかる。
「相変わらず朝に弱いわね」
「姉ちゃんが強いだけだよ」
「はいはい、できたら呼ぶから。目玉焼きは?」
「半熟を二個」
「はーい」
「おやすむ」
 おやすみ、と夢への入り口のキスを一つ置いて彼女はキッチンへ向かった。



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Twitterにて寝ぼけながらつらつら書いた二人のやり取りです。山もオチもない。
寝ぼけすぎて最後の方何を書いていたのか記憶にない……楽しいお遊びです。
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2017/07/18 (火)
佐久間姉弟の事情