vanilla 03

 朝、隣に誰もいない孤独で目が覚めた。
 あたりを見回しても雑多なアパートの一室に北原の姿はない。シャルが持っている唯一の私服である青いスウェット生地のパーカーに袖を通して狭いキッチンの先の玄関を確認すると北原の靴も無かった。ゴム口がよれたパーカーの裾を引っ張って、玄関に膝を抱えてシャルは座った。
 どれだけの時が経っただろうか。板張りの床がシャルの薄い尻を冷たくさせ、シャルが不安に震え怯えるのには十分な時間だった。玄関が開く音に顔を上げると帰ってきた北原は珍しくスーツ姿で、長い髪を低い位置で一つに束ねていた。
「シャル、起きてたのか」
 北原の手がシャルの頬に触れる。人肌の温もりが凍り付いたシャルの口の端を溶かしていった。
「詫びと言ってはなんだけど、これもらったからやるよ」
 小さな紙袋の中を覗いて紙箱に印刷された見覚えのあるロゴに、シャルはぱあっと顔を輝かせる。
「お前、これ好きだろ?」
 シャルはコクコクと頷き、北原をせかすようにワンルームの座卓まで駆ける。
 贈答用の紙箱の中には透明なカップのカスタードプリンがふたつ並んで入っていた。下には飴色のカラメル、バニラの粒が混ざった固めカスタードの上には真っ白な生クリーム。口の中で混ざり合うと苦さと優しさが調和して夢を見ているように幸せな気持ちになった。気まぐれで北原が持ってくるこのプリンのことがシャルは大好きだった。
「じゃあ俺、シャワー浴びてくるわ。整髪料付けてるとハゲそう」
「いってらっしゃい」とまた一口プリンを口に含んで北原をユニットバスへ見送った。

「シャル、ちょっとこっちこい」
 風呂からあがった北原はベッドに腰掛けると、シャルを隣に座らせた。
「何、改まって」とシャルは笑う。だが彼の心中は不安と怯えしかなかった。最悪の事態を予測して、そんなことなかったと安心させようと必死だった。しかしその淡い希望すら簡単に裏切られる。
「シャル、お前は今日からここを出ていくことになった」
「えっ、何で、何故なの北原さん」
 北原の胸に掴みかかって叫ぶ。
「お前を買い取りたいという人が今日やってきてな。お前を売ることにした」
 言葉が出なかった。今まで必要とされてここにいたのに、こうもあっさり終わりが来る。北原にとってシャルと呼ばれる少年は恋人でもなんでもなく、ただの商売と性処理の道具でしかなかったのだ。「シャル」は所詮道具。人としての存在価値はなく、売り買いされる「物」なのだ。そうシャルは思わざるを得なかった。
「いくら……いくらで僕を売ったの」
 求めていた以上の屈辱に震える声で問う。
「知らない方がいいんじゃないの? 自分に付けられた価値なんて」
 シャルは襟を掴んでいた手を離した。
「もうすぐ迎えが来るから荷造りしろ」
 冷淡な声にシャルは静かに笑った。また売られたのだ。金目当てで僕を。ひどく惨めで興奮した。ショーを見に来る汚いゴミのような大人よりも価値のない僕。次の飼い主もセックスが上手だろうか。
「どんな人なの?」
 シャルが訊ねると北原は一言「社長さんだ」と答えた。
 金持ちが人を買うことはよくあることだ。気に入った風俗嬢に金を渡して家に住まわせる、いわゆる「水揚げ」というものはシャルも聞いたことがあったし、シャルを買い取りたいという申し出は何度もあったと北原は言っていた。しかし今まで北原はどんなに金を積まれてもシャルのことを手放そうとはしなかった。どうして今なのだろう。
「僕はもういらない子なんだね」
 何度も繰り返した言葉を思い出したようにシャルは呟いた。
 まとめるほどの荷物なんてなく、あっけなくそのときは来た。
「シャル、迎えが来たぞ」
 北原がシャルの髪に触れる。黒くて柔らかなそれを確かめるように指に絡ませて耳、頬へと手を撫で下ろす。
 シャルは北原の手を振り払って立ち上がった。もう用済みになるのだから気にも留めなかった。シャルにとって自分を必要としない人間なんて必要ではなかった。身寄りのない自分を住まわせてくれた恩はあったが、北原は僕のことを売ったのだ。
「もう必要じゃないんでしょ?」
「ああ、もう帰ってくるなよ」
 その言葉を最後に、シャルはアパートの前に停められた黒塗りの車に乗り込んだ。バニラとムスクの香りがする。
「さようなら、北原さん」
 どんな生活が待っていようとシャルにいかなる選択肢も無かった。不安に思うことも逃げ出すことも知らなかった。何故なら彼は売買される「物」だから。そう、シャルが信じているからだ。



お読み頂きありがとうございます。
シャルのことを思うと悲しみと慈しみで胸がいっぱいになる作者です。
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