vanilla 05

 廊下を行けども行けどもこの家は広すぎた。どこを曲がったら外に出られるのだろうか。逃げることは商品として許されることではないだろう。それでもシャルは引田から逃げたかった。引田のことが怖くて仕方がなかった。どんな酷い目にあうことも命を奪われることもシャルは怖くはなかった。この嫌悪感が何なのかシャル自身はまだ分からずにいた。
 ようやく見つけた階段を下りきったところでシャルは胃の中のものを全て吐き出しうずくまってしまった。素足にかかる吐瀉物が生温く、喉がひりひりと酸で焼ける痛みに涙を落とした。
 帰りたい。
 シャルの願いは酷く儚いものだった。誰のところに帰ればいいのか彼自身にも分からない。追いかけてきた引田の声を遠くに感じながら、シャルは目を閉じる。この世界に彼の帰る場所はなかった。

 使用人の萩野の案内でシャルはシャワーを浴び、清潔すぎるほど白いシャツを一枚だけ身に付けてベランダで街並みに沈む夕日を眺めていた。引田の邸宅は市街地から少し離れた高台にあり、かつてシャルがいた繁華街を遠くに見下ろすことができる。あんな小さな世界に囚われていたのだとシャルは知った。毎晩ショーをして、セックスをして。それだけの毎日だった。
「落ち着いたかい?」
 背後から話しかけられ、シャルは身を固くする。引田はシャルと少し間をあけて並んで黄昏を眺めた。
「いい眺めだ。隣に君が居てくれるからね」
「なんで、そんなこと言うの」
「なんで、って君のことが好きだからだよ」
 夕日が沈み、紫の空にピンクの綿みたいな雲が浮かぶ。太陽に輝きを奪われていた星たちが静かに瞬き始める。それを美しいとシャルは思えなかった。
 無言で空を眺めていると、引田は頬を緩ませて笑った。なんでこの人はこんなにも幸せそうに笑うのだろう。
「夕食は食べられそうかい? 萩野に頼んで今夜は中華粥だ」
 引田はシャルの艶のある髪を撫でると、室内へ戻って行った。
 繁華街から眺めるよりずっと暗い空を眺めて、シャルは訳も分からないまま一筋の涙を流した。

 夕食後、今日からここが君の部屋だ、と案内された先は一階の一番奥の部屋だった。北原のアパートの倍くらいはありそうな部屋の中には大きなベッドと、机と椅子のセット。テレビにソファーもあった。部屋の中にはもう二つドアがあり、一つは引田からのプレゼントの箱が積まれた衣裳部屋、もう一つはトイレがついたバスルームだった。着の身着のままでこの家にやってきたシャルにとってはあまりにも広すぎる部屋だ。シャルは戸惑いのままにお礼の言葉を口にした。
「廊下に出て向かいが私の書斎。その隣が寝室だ」
「広すぎて迷子になるよ」
 ぼそりと呟くと、また引田は微笑んだ。
 それじゃあお休み、と引田は部屋を出ていった。取り残された孤独に、シャルは立ちつくしていた。

 夜更け、引田は廊下から射す灯かりに目が覚めた。ドアを閉めたはず、と身体を起こすと、ドアの前に華奢な身体の少年がいる。
「引田さん。見たいんでしょ? 引田さんのためのショー」
 少年はシャツのボタンを外してこちらに歩いてくる。
 ベッドにあがった少年からは、甘いバニラの香りがした。



お読み頂きありがとうございます。
シャルの心理を考えながら書いていると胸がいっぱいになります。
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