140字SS 086~090

086 失音

 音楽は僕の全てだったと男は話す。
一度しかない青春時代と若い情熱を全て音楽に捧げ、人を楽しませることを何よりの生き甲斐としていた。
 男は音のない部屋で涙を落とした。どれだけ泣き叫んでももう聴こえない。
 もうどう生きたらいいのか分からないと男は嘆いた。
 世界からひとつ、色が消えた。




087 苦悩

 人は難題にぶつかったとき、名前に名残を残す。
 0より小さな数ってなんだろう。
 2乗して負の数になる数ってなんだろう。
 そうやって私たちは数の世界を広げてきた。
 苦難した過去の数学者たちに思いを馳せて、今日も私はノートに向かう。
 新しい数の世界を見つけるために。




088 3.141592

「3.14159……」
 習ったばかりの数を弟が読み上げる。
「兄ちゃんはどこまで覚えた?」
「50桁くらいかな」
「じゃあ僕はもっと覚える!」
 一心不乱に数列を唱え始める弟の頭を撫でる。
「この数の中には兄ちゃんたちの誕生日もあるんだよ」
「ほんと!?」
 その目の輝きを忘れないでね。




089 8.2秒

 1秒、2秒、彼は私の目を見つめる。
 3秒、4秒、じっとりと、燃える瞳で私の心を見抜こうとする。
 5秒、6秒、大きな喜びと恥じらいに顔中を赤く染める。
 7秒、8秒、心の声が喉を突き破りそうになるのを唇を気付く結んで堪える。
 8.2秒、「貴女に一目惚れしました」




090 ラッキーナンバー

 今日は運がいいみたい。
 今朝乗った電車の番号は2116。平方数。
 バスのナンバーが1024。2の累乗。
 偶然もらったスーパーのチラシには6時から特売。階乗数で完全数。
 時計を見ると8時21分。互いに素。
「おはよう、一村くん」
 ほら、朝からいいことがあった。
「おはよう、樋野さん」







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