vanilla 12

「いってらっしゃい」
 シャルはいつも早起きをして引田を見送るようになった。
「いってきます」
 そして必ず、キスをするようになった。
 朝の見送りだけではなく帰りも、寝る前も、廊下ですれ違った時でさえ首に腕を回しては触れるだけの口付けを交わす。
 それに加えて、萩野に教わりながら家事を手伝うようになった。食器を割るなどの失敗はしたが、元より器量の良かったシャルはすぐに家事を覚えた。
 シャルは無味な自分が味付けられていくのを感じていた。自分が必要とされ、自分が必要とする人の存在に胸の奥が温まるような心地だった。ただの口付けだったかもしれない。それでも初めて自覚した「優しさ」にシャルは身体に翼が生えたような心地だった。
「はぁ」
 リビングの床に座り、洗濯物を一緒に畳んでいると萩野が溜め息を吐いた。ここ数日、萩野は気付けば溜め息ばかり吐いていた。
「萩野さん、どうかしたの?」
「なんでもないです。なんでも。ただ、シャル様が料理もお洗濯もできるようになってしまわれたら僕はもう要らないのだなと思えてしまって」
「それは困るよ。萩野さんのご飯美味しいのに。この前の坦々鍋美味しかったよ」
 いかにも幸せという香りを放っているシャルに全部ぶちまけてしまいたかった。愛する人に愛される幸せはどんな心地か聞いてやりたかった。
 半分ほど畳み終わった頃、明るい呼び鈴が鳴る。何が届くかおおかた予想がついていた萩野はシャルに印鑑を持たせて出るように頼んだ。
 郵便で届いたのは、掴めるほどの厚さがある冊子だった。封筒には「写真」と書かれている。
「萩野さん、これ何?」
「お見合い写真ですよ」
 シャルの視界ががらがらと崩れるようだった。視界の端で萩野が笑っているように見えた。
「お見合いって、何」
「シャル様はご存じないですか? 男女が第三者の紹介で出会って結婚することですよ」
 萩野の声はいつもより低くて穏やかだった。その声がシャルの心臓に突き刺さる。
「そんなこと僕は知っているよ。なんで引田さんに届くの?」
「何故って、もう旦那様も三十後半です。もう結婚なさっても可笑しくない歳ですよ」
 シャルは膝から崩れ落ちた。僕を愛しているのは嘘だったのだろうか。いや、きっと本当だ。男同士のカップルの末路は嫌と言うほどシャルは知っていた。引田は社長だ。きっと跡取りが必要だろう。
「僕はやっぱり、ここにいてはいけなかったんだ」
 小さな涙をシャルは落とす。すると萩野は呟く。
「何故、あなた様なのですか」
「え?」
 萩野は激高のままにシャルの肩をつかんで床に倒した。畳んだ洗濯物の山が崩れる。
「何故、あなた様なのですか。何故僕ではなくあなた様が選ばれたのですか」
 驚いたシャルが目を見開くと、今まで見たことのない萩野の感情的な顔がそこにあった。熱い雫がシャルの頬に落ちる。
「何故シャル様は愛されていることを受け入れないのですか。旦那様はもうすぐ結婚するかもしれない。それでも、何故一瞬でも愛された喜びを大事にできないのです」
 僕はあなたが羨ましい。それだけ吐き出した萩野は、シャルの上から退いて静かに崩れた洗濯物を畳み直した。
 知らなかった萩野の想いに、シャルは泣きだすことも声をかけることもできなかった。
「やっぱり僕はここに来てはいけなかった」
 シャルは逃げるようにとぼとぼ階段を降りて、自室のベッドでやっと両袖を濡らした。

 引田が帰宅すると、シャルは笑顔で迎えてくれた。しかし心もち寂し気で、目の端が赤いような気がした。
「引田さん、僕の名前、知りたい?」
 シャルは引田の腕の中に縋り付いて、絞り出すように言った。



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北原さん再登場です。お待たせしました。
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