その手で 04 イクと体育館

 午後、濡れた子猫みたいな顔をしたナイが「忘れ去られた場所」にやって来た。いつものおさげはほどかれて、少し濡れて軋んでいた。白いセーラー服の上に赤いジャージを羽織っていて暑くないのか気になった。
 ナイが俺の隣に腰掛ける。緑のネットがやわらかく軋むのを背中で感じた。微かに、塩素の臭いがする。
「プール、入ったのか?」
 ナイは返事をせずにやたらスカートの裾を引っ張る。内ももをもじもじさせて、気持ち顔が赤らんでいるように感じる。ナイはまた何かを考え込んでいる。早く答えろと苛立つ人も多いのだろうけれど、ここは忘れ去られた場所だ。時間はもてあますほどたくさんあるからナイはいくらでも考えていい。
「突き落とされた」
 俺が煙草一本分吸い終わる頃に、ナイは答えた。
「はあ?」
 俺の語尾が馬鹿みたいに上がる。
「プールサイドの掃除してたら、気づいたら水の中にいた。背中が痛かったから、たぶん押されたんだと思う」
「突き落とされたかどうかくらいの判断はできるようになれよ」
 俺はクックと笑った。どれだけ間抜けなんだか。
「よくそれで死ななかったな」
「死ねなかった」
 ナイは天井のバレーボールを見つめながら言った。
「死ぬなよ」
「そうだね。私はイクに殺されるから、死んじゃだめだ」
 ナイは俺の左手を掴むと、自らの首に当てる。頸動脈を圧迫するように力を込めると、ナイはうっとりとして恍惚と微笑んだ。ナイの命は俺のものか。考えただけで奇妙としか言えなかった。意識を落とす少し前に手を離すと、ナイはふらついた頭を俺の肩に寄せる。塩素の香りが邪魔だった。
「プールに落ちて、体育の先生と保健室の先生に怒られた」
「突き落とされたのにか?」
「私が誰が突き落としたのか分からなかったから。見学の女の子たちだと思うけど、誰も名前分かんない」
 おそらくはナイはクラスの誰の名前も分からないのだろう。
「じゃあさ、俺の名前分かる?」
 数秒間があって「イク」と答えた。語尾が上がっていたのは質問の意図を理解していないからか。
「ナイ、ノートとシャーペンあるか?」
 ナイは薄い鞄からほとんど使われていないルーズリーフを取り出す。俺はシャープペンシルでルーズリーフの端に書き記す。
「坂上郁(さかうえいく)が俺の名前。分かるか?」
 ナイはこくんとうなずく。
「ナイは名前なんていうの」
 彼女は俺の手からシャープペンシルをとって〈松岡深澄〉と書いた。
「なんて読むの?」
「まつおかみず」
 他人の名前を呼ぶようにナイは読み上げた。
「ミズっていうのか、ナイは」
「ナイでいい」
 そっか、と俺はナイの肩を抱き寄せた。ビクリ、とナイがいつもと違って反抗した。
「どうした?」
 ナイは口をぱくぱくさせて、それから、顔を赤らめて小さく呟いた。
「プールに落ちたから」
 なるほど、と俺はあえて脇からナイをすくい上げてみた。文字にならない声をあげてナイが手足をばたつかせる。何も守るものがない、柔らかな感触がした。
「ノーブラで校内を歩いていたのか、ナイは」
 ナイはううぅぅぅとうめいて、俺の肩を叩き始めた。照れるナイを見るのは初めてだった。
「えっちだねー松岡深澄さん」
 からかって脇をくすぐってやる。声にならない声でナイが身体をくねらせる。面白くて続けていると、ナイの肘が俺のみぞおちに入った。俺もむせてしまうと、二人で声を上げて笑った。
 目尻の涙を指で拭いながらナイが言う。
「私は、ナイ、だから」
「なんで?」と聞くと「イクにもらったものだから」と答えた。
 そのあと、ナイがノーパンだということを知ってさらにからかってやったが、さすがにめくるのは憚られたので笑うだけにしておいた。


読んでいただきありがとうございました。
名前って一緒に生きていく上で大事なものだろうか。
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