骨になるまで 01

 二十三歳、春。音のない雨に濡れた腐葉土が甘く死んだように臭ってきた。新しい芽をつけた古ぼけた大樹が、来訪者を受け入れるようにアパートの階段に覆い被さっている。私たちが二階に運ぶ段ボールが溶けるでもなく、でも確実に湿度を持って質量を増していた。
「ごくろうさん」
 引っ越しトラックの音を聞きつけた一階の住人が玄関から顔を出した。人生の迷いを乗り越えたという風貌の老夫婦だった。おじいさんの方は薄くなった白髪がちらちらと光り、そのくせ、眉毛がぼうぼうで立派だった。おばあさんの方は白髪交じりの髪をひっつめている。目の下の皺が可愛らしかった。そしてどちらも穏やかな淡い瞳をしていた。
「ありがとうございます。あとで挨拶に伺いますね」
 しのぶが外階段から身を乗り出して答える。しのぶの刈り上げた短い髪もしっとりと濡れていた。私のセミロングの茶色い巻き髪はボリュームを増して少し重たく感じた。
「ふふ、新婚さんかね? よく似た夫婦だこと」
 それじゃあいつでもいいから落ち着いたらいらっしゃい。と老夫婦は霧雨を避けるように部屋に戻っていった。
「あやめ、新婚さんだって」
 しのぶは笑いをかみ殺して言った。私は、耐えがたい悔しさとこれから始まる幸せに身が引き裂かれそうだった。
 一階の老夫婦に私たちの地元の銘菓を渡すとご丁寧にと喜ばれた。困ったらお互い様だから頼りなさい、と乾いた手に握られて、この夫婦には知られてはいけないと身を固くした。
「いい人だったね」
 胸をなで下ろすしのぶの腕を強引に引いてスチールのドアを閉めた。私と同じ身長。唇を無理矢理押し当てると前歯が当たる音がカチカチとした。
「……あやめ」
「旦那さん、に見られて嬉しい? おねえちゃん」
 しのぶは私を抱きしめて、唇と舌を求める。私たちのどちらでもない、知らない人の臭いが部屋からした。乾いた土に水を与えたような臭い。カビが生命を取り戻す。いつか消えて私たちの臭いに塗り替えられてしまうけれど、雨のような臭いは私たちから消えたことがない。それが私たちの体臭なのだ。
 しのぶは――私のおねえちゃんは私の薄手のブラウスを脱がして肩に顔を下ろす。身体を擦り合わせて、唇が蛇のように私の素肌を這う。熱い唇は湿っていて、私の肌をマーカーで塗りつぶしていくようだった。おねえちゃんの色になれるのならば、私はどうなってもよかった。新婚夫婦を演じることをおねえちゃんが望むならば、おねえちゃんと一緒に居られるのならば。
――――私の心なんて腐り落ちても構わなかった。
 私たちは靴を脱ぎ捨て、もつれ合うように奥の居間に向かった。ベッドは軋んで音が伝わるから使わない。湿った段ボールが壁際に並んだ部屋で服を剥いだ。私と同じ身体。美しく瑞々しい姉と妹の身体。私たちは、双子だった。違うのは、おねえちゃんは黒くて固いハーフトップで胸を覆っていた。おねえちゃんはそれを決して脱がない。
 おねえちゃぁん、と私は弱々しく彼女を求めた。おねえちゃんがくれるものは何でも欲しかった。たとえ苦痛でも、屈辱でも。
 しのぶは唾液を口の中に集めて、白いかたまりにして私の喉に落とした。私は全部飲み込む。おねえちゃんの海水のような生臭い味がした。もっと、と私は口を開く。おねえちゃんを飲みたい。また白いかたまりをおねえちゃんは落とす。唾液を吸い取る音が卑猥に響いた。
 私を見下ろすしのぶの胸元には小さな切り傷がある。私は傷跡を執拗に舐めた。忘れないよ。忘れないよ。私たちが違った日を。

   ***

 おねえちゃんは、私の自慢のおねえちゃんだった。
「しのぶナイッサーっ!」
 同じ高校に進学した私たちは、同じバレーボール部に入った。しのぶは選手として。私はマネージャーとして。
 しのぶがボールを高く上げて飛び上がり、鞭のような身体でボールを相手コートに打つ。誰もボールに触れることができなかった。力強く打ち付けられたボールが跳ね、審判の笛が鳴る。一瞬の静寂が訪れた。
 しのぶはコートの中で歓声を一身に浴びて、コートの仲間とハイタッチを交わした。最高にかっこいい、私のおねえちゃんだった。
「相変わらずあんたの姉ちゃんすごいね」
 バレーボール部のいつも試合を見ている選手側のことねが私に耳打ちする。ことねはボリュームのある肩ほどの髪を二つに結って、ジャージを肩から羽織っていた。
「そりゃ、私のおねえちゃんだもん」
「そんな姉ちゃんを一番近くで見たいからってマネやるあんたもすごいよ」
「それもあるけどさー」
 私は下品な顔をして
「揺れるおっぱいを間近で見られるなんて最高じゃんか」
 ことねは呆れたように息を吐いて、それでも口角を小さくあげて「わかる」と同意した。
 ことねと私はレズビアン仲間というやつだ。かわいい女の子が好き。綺麗な女の子が好き。柔らかくて繊細で強い女の子が好き。私が女子バレーボールを見る目でことねに気づかれた。ことねと私は共同戦線を張っていた。そして私がおねえちゃんに向ける想いを相談できる唯一の相手だった。
「はー、おねえちゃんが可愛い」
「それ今日五回目」
「数えんなベンチの貼るカイロ」
「へえへえ、ちゃんとしのぶ姐さんのところ暖めておきます」
 おどけてペコペコすることねと顔を見合わせると、おかしくて笑った。
 体育館の外では、ぱらり、ぱらり、と小気味よく雨粒が外廊下のトタンに跳ねて梅雨の音色を奏でていた。水たまりでは、ぴとん、と雨粒が踊り水紋を作る。練習試合の数も増えてきた。いよいよ夏のインターハイ予選が始まる。おねえちゃんは長身のエーススパイカーとしてスポーツ雑誌でも注目されていた。おねえちゃんが輝くところを近くで見られるのならば、私はどこまでもついて行く。
「あやめはさ」
 試合を片目で見ながらことねが切り出す。
「あやめはバレーやらないの? しのぶと同じ身長もあるんだし、運動神経も悪くないんでしょ?」
 私は片頬をゆがませて笑った。
「私なんかができるわけないよ。それに私が試合に出たらおねえちゃんのことずっとは見ていられないでしょ? 私はおねえちゃんを支えていたいの。一番近くで」
 健気だねえ、とことねは私の肩を軽く突いた。おねえちゃんのことをトクベツに思っているっておねえちゃんは知らない。知らなくてもいい。だって双子だから。同じ存在なのだから。


お読みいただきありがとうございました。今夜から始まります、バレンタインデー五夜連載。
当作品は「似てない双子企画」参加作品なのですが、大人の事情で当サイトでの公開となりした。
彼女たちはどう「似てない」のか、彼女たちの愛の在りかたに注目して楽しんでくださると嬉しいです。
それでは続きは明日の21時です。よろしくお願いいたします。読みましたの拍手もお待ちしております。

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