骨になるまで 03

 目を開けると、滴が頬を伝って耳の中に入った。音がうまく聞こえない。きっと外の大雨のせいだ。風が強くて、建物の隙間をかける風がびゅうびゅうと唸った。
 手が、暖かい。
「あやめ、起きた?」
「お、ねえ、ちゃん?」
 短い髪に、細い輪郭。二重まぶたに低い鼻。耳の下のほくろ。私たちの顔だ。おねえちゃんはTシャツの上にジャージを羽織っていて、私の手をずっと撫でていた。
 起き上がろうとする私を制して「生理痛、ひどいんでしょ。もう少し寝てな」とお姉ちゃんは寝かせた。私はひどく寂しくなって、おねえちゃんが恋しかった。
「おねえちゃん、だっこ」
 しょうがないなあ、とおねえちゃんが保健室のベッドに入ってくる。抱きつかれると雨が長く降り続いた後の、さっぱりとした臭いがした。外の暴風雨はいっそう激しくなり、校庭の木々が馬鹿みたいに揺れている音がした。ぽっきりと折れてしまうかもしれない。おねえちゃんの胸に顔を埋めると、体温と恋しさが伝わって、私はほろほろと泣き出してしまった。
「今日のあやめは泣き虫だね」
「だって、だっておねえちゃん彼女いるでしょ?」
「いないよ」
「だって、見たんだもん。おねえちゃんがキスしてるところ」
 あれは、とおねえちゃんはうまく言えないようだった。私も核心は言わないでいて欲しかったし、でも本当のことが知りたくてたまらなかった。
「あれは彼女じゃなくて、その、ただ向こうに好かれてただけ。恋はしてない。キスがどんな意味を持つのか知りたかった。あれはきっと価値のないもので、心がなければキスはただの接触でしかないって分かったから。うまく言えないけど、そんな感じ」
「じゃあ」
――――私のこと好き?
 ひどく不格好だった。本当は星空を見ながらとか、黄昏色の教室でとか、そういうロマンチックなシチュエーションを望んでいた。でも言わずにはいられなかった。暴風雨の保健室。私たちは雨の子供だ。
「好きだよ」
 しのぶは慈しみの湿度を持って答えた。
「正直に言うと、あやめとキスしたかった。あやめとキスしたら何か変わるかもしれない。確証は持てないけど」
 私は返事の代わりにゆっくりと唇をおねえちゃんにくっつけた。身体中のどこよりも敏感なそこに触れて、毛羽立った脳みそがとろりとなめらかになるのを感じた。
「おねえちゃぁん」
 怖くなって、私は弱々しくしのぶの身体にしがみついた。とろりと、私から赤が落ちる。
「あやめ、舌、出して」
 言われるままに、えぇ、と舌を出す。おねえちゃんは私の舌をぱくりと食べて、薄い唇でもぐもぐと咀嚼した。熱い舌に触れて、怖くなって、でも、キモチイイ。
「あやめ、ようやく分かったよ」
 おねえちゃぁん、おねえちゃぁん、と私は退化して鳴き続けた。

   ***

 五月。おねえちゃんと共に暮らし始めて、来るべくして初めての喧嘩をした。おねえちゃんと私は分かり合いたいのに分かり合えない。おねえちゃんと私の人生は同じであるべきで、同じ運命をたどるのだと私は信じていた。でも、それでも、同じ受精卵を分けた存在でも、私たちはこんなにも違う。
「なんでおねえちゃんはそう勝手に決めるの?」
「だってこれは個人的なことだから」
「個人的って、私たちの生活に関わることじゃない」
 おねえちゃんは憮然として、あやすように私を抱きしめようとした。その腕を振り払って、
「絶対おねえちゃんより素敵な彼女作ってやるんだから」
 そう吐き捨ててことねを電話で呼び出した。バスで市街地まで出て、レズビアンバーに二人で入っていった。バーには他に二人組の女性と、男性的な見た目の女性のグループがいた。私たちは男性的な見た目の女性たちに話しかけて、テキーラサンライズとギムレットを注文した。話は弾んだと思う。おねえちゃんへのやるせなさと怒りで喉が渇いた。
 何杯目か分からないカクテルを飲んだあたりで、私はグループのうちの一人に抱きしめられた。乾いた花びらのような香りに私は「違う」と叫んだ。だあだあ泣き始めたあたりでことねに引きずられるようにして店を後にした。バーのママには先にタクシーを呼ばれていたようで、そこからはあまり覚えていない。
「しのぶ、後はなんとかして」
 ことねの肩を借りて玄関までたどり着いた私は、投げ出されるようにおねえちゃんの胸に預けられた。
「ことね、あやめは何杯飲んだの?」
「数えるのを諦めるくらい」
 おねえちゃんの溜息はしっとりとした雨の臭いがした。
「おねぇちゃんだぁ、えへへ」と私はおねえちゃんの首筋に舌を這わせる。
「あやめ、女の子を口説くどころかあんたの自慢話ばっかりで。本当に喧嘩したの?」
「あやめが一方的に怒っているだけだよ。迷惑かけたね、ありがとう」
 あんたたちも難儀だねえ、とことねは夜の街に帰っていった。
「あやめ、大丈夫?」
「だいじょうぶー」
 おねえちゃんは私を抱きかかえて、トイレまで連れて行く。
「一旦吐きな? 楽になるから」
 おねえちゃんの指が私の喉に入ってくる。おいしい、と私は思った。
「ちょっと、食べないでよ」とおねえちゃんは笑っていた。
 おねえちゃんの指が喉の奥に触れる。私が今まで飲み込んだ鬱憤、悲しみ、言いたいこと、アルコールが逆流する。すっぱい涙が頬を伝う。
「はい、よくできました」
 おねえちゃんは私の口をゆすがせると、ベッドに座らせてミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。今日のおねえちゃんは、私のおねえちゃんはいつも優しい。優しいけど、分からない。
「下のおじいちゃんたちも心配していたよ。痴話喧嘩かい? って」
「おねえちゃん、私たちは夫婦なの? 夫婦みたいに赤の他人なの?」
 ううん、とおねえちゃんは首を振って、私の背中を心地よいリズムで叩いた。
「おねえちゃんは、やっぱり『おにいちゃん』になりたいの?」
 ぐずぐずの顔をしのぶの胸で拭いながら私は問う。おねえちゃんは、ベッドの絹の雨の中で私を抱きしめた。


お読みいただきありがとうございました。早いものでもう折り返し地点です。
当作品のモチーフは「水」「アルコール」です。考察してみてくださいね。
それでは続きは明日の21時です。よろしくお願いいたします。読みましたの拍手もお待ちしております。

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