その手で 07 ナイと岩崎屋

 私はイクと忘れ去られた場所を出ると、体育館裏の駐輪場に向かった。すでに帰ってしまった人が多いようで駐輪場は閑散としていた。もっとも、私はバス通学なので駐輪場に来るのは初めてだった。いつもはどれほどの自転車が置いてあるのだろう。
「ナイ、こっちだ」
 イクに呼ばれる。イクの自転車はメタリックブルーのフレームのシンプルなものだった。イクは青色が好きなんだな、と私は安心した。
「二人乗りできるか?」
 自転車の二人乗り。立派な犯罪だ。でも私たちが今更気にすることだろうか。いつか死ぬのに罰せられたとか前科があるとかどうでもいい気がする。
 ナイ? と呼ばれ私は自転車の後ろに横向きに腰掛けた。またぐには少し高すぎたのだ。
「そういうところは女子なのな」
 そうイクが揶揄すると、自転車は勢いよく進んだ。振り落とされそうでイクの腰に抱きつく。バランスを取るのが難しかったが、スピードに乗ればスイスイと自転車は進んだ。
 川を渡って街の中を進む。前に進む人、前からやってくる人、右に進む人、左に進む人、立ち止まって携帯電話を確認する人。雑踏の中で私はこの人たちの末路を思った。
 どうせみんな死ぬ。なのになぜ生きるのだろう。どうせ別れるのに、なぜ恋をするのだろう。
 この考えに至ったとき、私は息を漏らして笑った。
「ナイ、何考えてる」
 前を向いたままのイクが問う。
「私、恋してるのかなって」
 イクは何も答えなかった。イクを抱きしめていると体温が、鼓動が、私の中に入ってくる。いつか止まるこの鼓動に何の意味があるのだろう。でも、止まらないでいて欲しいと私は願った。
 力強く自転車は進み、市街地を抜けて少し外れの住宅街に入る。ここだ、とイクが自転車を止めたのはドア上に「岩崎屋」と印刷された暖簾を掲げた比較的近代的なデザインの店だった。店の上は住居になっているらしく、店の入り口の横の階段にいくつかの郵便受けが並んでいた。
 大きなガラス窓がはまった引き戸をスライドさせ、暖簾をくぐると「いらっしゃいませ!」と大きな声が飛んでくる。
「何だ、坂上か」
「ちわっす、大将さん」
 イクが控えめな声で挨拶する。軽く頭を下げるので私もつられて私も頭を下げる。
 ほう? と大将さんと呼ばれた人が語尾を上げる。
「坂上が女の子連れてくるなんてな。まあいい、座れよ。今日はシフト入ってないだろ?」
「はい、今日はナイ――松岡がおなかすいたって言うんで連れてきました。醤油二杯で」
 それでいいか? とイクが言うので私はうなずいた。
 醤油二入りまーす! と威勢のいい声を張り上げるので私は肩を震わせた。一体何が始まるのだろう。
「ナイ、まさかとは思うが、ラーメン屋来るの初めてか?」
 咎められているようで私は控えめに頷いた。イクは溜息を吐いて一言「期待してな」と私の手を握った。自転車のグリップを握った後だからか、ほんのり湿っていて柔らかかった。
 私の心臓はいつもより大きく拍動していた。カウンターがぐるりと厨房を取り囲んでいる。テーブル席は二つ。ぐらぐら沸き立つお湯。鰹出汁と獣の臭い。明るいダウンライトの店内にシックな黒い壁。メニュー表に踊るオススメの文字。昼の三時には他の客はいなかった。
「ナイ、ナイ、緊張してるか?」
 私は頷くことも忘れて店内を観察し続けた。大将さんとよばれたお兄さんは三十歳くらいで頭に白いタオルを巻いた恰幅のいい男性だった。腕の筋肉が逞しい。腕を振り下ろして麺の入った網から水分を落とす。ダイナミックで恐ろしかった。
「はい、醤油二丁」
 私とイクの前に赤黒い液体に黄色い麺が入った器が並ぶ。グロテスクな感じはしない赤さで、醤油と出汁の香りに口の奥から唾液がしみ出してきた。
「冷める前に食べるぞ?」
 イクに割り箸を渡されて、赤い器と対峙する。箸を割って麺を口に運ぶ。
「おいしい」
 私の言葉に満足したのか、大将さんは「そうかそうか」と口角を上げて微笑んだ。丸い顔が嬉しそうに歪む。
 イクが威勢良く麺をすする。私もマネをしてすすろうとするのだかうまく麺が入らない。結局箸で持ち上げて口に運んだ。麺ももちもちしておいしかった。
「なんだよナイ、麺すすれないのか?」
 頷いて、もう一度チャレンジする。どうにもうまくいかない。意地になって繰り返しているうちに、少しずつできるようになってきた気がする。
「これは慣れだな」
 イクに頭を撫でられて、私は嬉しくなった。また一緒にラーメンを食べてくれるってことだろうから。
 あらかた食べ終わったところで、大将さんが私たちのカウンターの前にやってきた。
「まさか坂上が女の子連れてくるなんてなあ」
 大将さんが満足げな笑みを浮かべていた。
 イクは照れているのか、スープを飲み干してから口を開いた。
「こちら、岩崎大将さん。で、こっちが松岡深澄。ナイって呼んでます」
 よろしくお願いします、と私が頭を下げると、大将さんもよろしく、と歯を見せた。
「大将って、お店の大将だからだと思った」
「それ、よく言われるんだけど本名なんだよ」と大将さんは鼻の頭を掻いた。
「大将さんにはいろいろお世話になってて、ここは俺のバイト先。で、ここの三階が俺の家」
 新たな情報を整理するために私は思考しはじめた。岩崎大将さん。岩崎屋、醤油ラーメン、イクのバイト先。イクは三階に住んでる。 
「ナイちゃん、は、坂上にいじめられたりしてないか? こんな見た目してたら怖いだろ」
「怖くは、ない、です。いつも一緒にいます。忘れ去られた場所で」
 そうかそうか、と大将さんはさっきから浮かれていた。
「坂上もこんな可愛い彼女捕まえるなんてなあ。隅に置いておけんな」
「大将さんっ」と叫んだイクの顔はラーメンの熱にのぼせたのか赤かった。
「でも、ナイは、大事な、彼女、です」
 ぼそぼそと答えるイクがおかしくて私は笑った。イクのことを少しでも知ることができたことが嬉しくてたまらなかった。いつか死ぬけれど、楽しんでもいいのかな、なんて思った。


読んでいただきありがとうございました。
大将さんいい人。好き。
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