【R18G】楽園の神様 03

 部屋のすぐ横。電気のついたダイニングには、帰宅した母がいた。ビジネスカジュアルに似つかわしくない安い缶チューハイを飲みながら、赤い唇で煙草を吸っている。銘柄は詳しくないが、鼻を刺すような苦い香りが母の臭いだった。
「またあのバケモノのところにいたの?」
 母はいっくんのことを――実の息子のことをバケモノと呼ぶ。私はそのたびに体の中心にナイフを刺された気分になる。しかしもう、何を反論しても無駄だった。
「いっくんのご飯作るから」
 私はブレザージャケットだけ脱いで、ワイシャツの上からエプロンを被る。
「私の分は?」
「お母さんと私のは後で作るよ」
 は? と低い声が私を威嚇する。
「私よりあんなバケモノの方が大事だって言うの? 誰が稼いであんたに食わせてやってると思ってるの」
 私は水切り台の上の包丁から視線を逸らした。
「いっくんはお昼も食べてないから」
「じゃああんたがもっと早く帰ってきて作ってやればいいさ。どこで遊んでるのか知らないけど、家のことくらいやってくれてもいいんじゃないの?」
 憮然として、私は冷蔵庫から玉ねぎを取り出して皮を剥き始めた。
「炒め物と焼き魚でいいよね」
 私の言葉に、好きにしなさい、と母は吐き捨て、缶チューハイを煽った。
 母がダイニングを去るまで、私は包丁を見ることができなかった。

 二人きりの習慣としてしか存在しない夕食を終えて、私は弟のご飯を作った。虫歯で殆どの歯がないいっくんのためにおかゆとペースト状のほうれん草と豆腐を用意する。もっと美味しいものを作れるようになりたいけれど、何がいっくんにとって美味しいのか私には分からない。
「いっくん!」
 南京錠を外すと、私は叫んだ。床に下ろした皿が音を立てる。柵をまたぐといっくんの口の中に手をつっこむ。
「んーんっ、んなーあ」
「いっくん、だめ、だめ」
 どろどろになった壁紙をなんとか吐き出させる。いっくんの指は黒く変色し、剥がされた壁紙には血痕が残されていた。
「いっくん、ごめんね。ごめんね」
 お腹空かせて、ごめんね。
 暴れるいっくんの肘が頬に当たり私はチェストに頭を強打した。こんなの痛くない。いっくんの痛みに比べたら、なんてことない。
「いっくんごめん。ごはんできたよ」
 おかゆが乗った皿を見ると、いっくんは犬のように口をつけて食べた。
 お母さんはいっくんのことを「バケモノ」という。獣のように飯にありつくいっくんは到底人間らしくないかもしれない。それでも――
「いっくんは、私の弟だから」
 部屋の端で私は膝を抱いて大声で泣いた。誰か助けてください。もし神様がいるのなら、私たちを助けてください。

 いっくんは呪われた子供だった。
 いっくんに知的障害があると分かると、母はいっくんを部屋に閉じ込めた。
 出られないように南京錠をつけて、ドアを開けた隙に出られることもないように柵もつけた。
 母は私が幼い頃から私に言い聞かせた。「樹は呪われたバケモノだ」
 なんでバケモノなのかは私には分からなかった。可愛い弟としか思えなかった。いつか素晴らしい外の世界を知って欲しかった。けれど、幼い私には何もできなかった。
 母は私たちを養うためにたくさん働いた。そしてその分だけたくさんお酒を飲んだ。
 ある日、酔っ払った母が私に言って聞かせた。
「樹はね、早苗の父親の裏切りからできた呪われた子なんだよ。お前のお父さんは私以外に女を作って、しかも樹と同時にその女から子供を産ませた。そしてなんて言ったと思う?『彼女は一人で生きていけない可哀想な子だから俺がいなきゃいけないんだ』ってさ。じゃあ二人の子がいる私はどうなる? 樹は望まれなくして産まれた呪いの子だ。だから頭がおかしく産まれてしまったんだよ。あんなバケモノ世間に知られるわけにはいかない。だから誰にも樹のことは話すんじゃないよ」
 私はただアルコールで充血した母の瞳が恐ろしくて頷くことしかできなかった。
 学校でも友人の間でも、私は一人っ子ということになっている。
 母のあの充血した目が怖くて舌が思うように動かない。
 私が中学生のときに突然現れた父にしか、私たち姉弟のことは話せなかった。
 お父さんはもうあのときの彼女とも別れ、私に性を求めたけれど、相談できる大人はお父さんしかいなかった。父にセックスを教えられ、それで金を貰うことも覚えた。

 どこかから声が聞こえる。
「弟に抱かれたいって、いつから思っているの?」

 私と父はよく似ている。最低で、最悪な、クズだ。



お読みいただきありがとうございます。
ここのコメントって読まれているのでしょうか。いるのかな……。
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